ちょっとマンガチックな映画紹介になっちゃったかナ。
でも私の映画への思いは、それなりに伝わるんじゃないかなあとおもいます。
淀川長治さんの文章を紹介していますが、淀川さんにとって映画は、生活そのものだったんだなあということが分かります。これは、ディズニーさんや手塚さんにも同じことがいえるでしょう(手塚さんの場合は映画というよりはマンガ・アニメという感じがしますが、)
私はそうした方々の働きを通して、暮らしを楽しむこと、(違いを越えて)ともに生きることの素晴らしさ、尊さを教えられたように思います。私もロマンを求めていきたいと思います。
左の動画には、韓国の映画や韓国を紹介する動画も含まれていますが、私は、学生のとき、韓国の学生と友達になりました。そして一緒に下宿生活もしたのです。その中で、私が韓国のことを如何に知らないことが多かったのかということを教えられました。
そして、違いを理解し、ともに生きることの大変さと素晴らしさを教えられました。
私がディズニーが好きなのは、いろいろな違いを越えて一つになれる世界がディズニーにはあると思うからです。
同じ色合いを持つもの同士、同じ考えを持つものだけで生活するのも悪くはないと思いますが、、
例えば、国籍や、民族や、肌の色や、境遇や世代の違いなど、いろいろな違いを越えて一つになっていける世界があるのです。それを、映画を通しても教えられるのではないでしょうか。
初めに〈動く絵〉に対する衝動があった。洞窟壁画にも見られるともいわれるが,映画の前史に記録されるのは,1780年代にスコットランドの風景画家 R. バーカーが考案した〈パノラマ panorama〉で,このことばは現在も〈パン〉(英語ではフランス語ではpanoramique)という映画用語に生き残っている。
〈パノラマ〉とは,円筒形の建物の内側に装備された巨大な画布が,薄暗い歩廊の中央にいる観客のまわりをゆっくりと回転し,戦闘の光景が眼前にいく動きを見せる見世物で,首を回すようにカメラをふる〈パン〉の技法によるイメージと同じ効果を出すものだった。
このパノラマの興行はヨーロッパ各地に広がって大ヒット。
パリでこのパノラマを見学した明治政府の岩倉使節団の《米欧回覧実記》には,〈初メテ此府ニ来リ皆託異スル一観場アリ,人造ニナリテ,天設ヲ欺ク,奇奇怪怪ナルコト,文明ノ精華トモ名ツクヘキモノニテ,之ヲ〈パナラマ〉ト謂フ,油画ノ展覧場ナリ〉とある。
〈動く絵〉に対する衝動は,こうして,次の三つの技術的な装置と素材の発明および発達によって誕生に具体的に結びつくことになる。
わち,網膜の残像現像(正確には心理現象)を利用した科学玩具の発明,光学器械による発展,写真の発明と発達である。
1646年,スイス生れのイエズス会の神父であり数学者であり神秘主義者でありアタナシウスキルヒャーが,映画を上映する映写機の先駆である幻灯機を発明。
著書《光と影の大いなる術》の中でその原理を説明しみずから制作している magic lantern の訳で,明治初期に文部省の手島精一の命名になるものである)。
幻灯に似たものは古代エジプト,古代ローマにもあったともいわれるが,静止状態で拡大投影する光学装置としての幻灯機が発明されたのは46年とされる。
その2世紀前にレオナルドダビンチが照明器具,集光レンズを発案していた。
プラトンは《国家》の中の有名な〈洞窟の比喩〉(〈プラトンの洞窟〉)で,暗く深い洞窟の奥でともし照らし出す影像だけを見て生きて人間が外に連れ出されて照らす世界を見て,再び洞窟の中に戻り,結局,人は影だけを見てい影だけが見えるものなのだということを認識する話を書いている。
バレリーはこの〈プラトンの洞窟〉を暗箱の起源と映画はそこから生まれるという論を展開した。
暗箱が幻灯に応用されたのは17世紀に入ってからで,1660年にデンマークの数学者バンゲンシュタインが初めて太陽光線の代りに人工光線を使って〈映写〉した。
詩人ボードレールは,51年にこれらの科学玩具の一つフェナキスティコープについて次のように書き,映画を予知しているかのようである。
発明された写真を絵の代わりに使った G.ドメニーのフォノスコープ phonoscopeでその完成点を見ることになる。
後,写真機を一列に一つの動き(走る馬など)を連続的に撮影したアメリカの写真家 E. マイブリッジから,1枚の乾板に12コマの撮影ができる〈写真銃〉を発明したフランスの生理学者 E. マレーらに至るまで〈連続写真〉の試みが盛んに行われた。
フランスの化学および物理学者 L. ルプランスが,パーフォレーション(送り穴)のあいた映画用フィルムとフィルムを送るためのスプロケットとともに,のちに O. メスターが完成する十字車を使う映写装置を考案(さらに彼はリュミエールのシネマトグラフより5年早い1890年に,映写をフィルム撮影を行ったが,その直後に走る列車の中から)と姿を消し,)。
アメリカでエジソンが35ミリフィルムを開発したのも89年であった。
ニューヨークのブロードウェーで公開されたのが自動映像販売機〈キネトスコープ〉で,〈魔法使いの最新の発明〉として喧伝され,キネトスコープパーラーと呼ばれる特設会場には,一日中群衆が立ち並び,夜になっても長い列を作って,5台のキネトスコープののぞき穴から90秒間の生きた動く写真を見るために待っていたという。
いが見られるようになると機械が売れなくなることを恐れ,スクリーンに映写する装置の開発をきらったといわれる。
[シネマトグラフの登場] スクリーンに映写する実験はエジソン自身も1889年に行っており,リュミエール兄弟以前にも,スクラダノフスキー兄弟によるふつうのロールフィルムで撮った連続写真をスクリーンに拡大映写したビオスコープ bioscope などもあるが,リュミエール兄弟が発明した撮影機兼映写機シネマトグラフ(当初は映写式キネトスコープ kinレtoscope deprojection と呼ばれて)は,現実そのままの〈動き〉をとらえスクリーン上に再現する装置であった。
95年12月28日,パリのグランカフェの〈インドの間〉で世界最初の有料試写会が行われた。
直後に奇術師として知られたジョルジュメリエスが,権利の譲渡をリュミエールに申し込んだが断られ(その後シャルルパテーに買い取られることになるのだが R. ポール(エジソンのキネトスコープを改良した映写装置を1896年に発明していた)から映写装置を買い取り,世界最初のプロダクション〈スターフィルム Star Film〉を作って映画を作り始めた。
96年4月23日に,アメリカでもスクリーンに映写するエジソンのバイタスコープが,シネマトグラフを追いかけたかで公開されたというなっているが,実は T. アーマットという写真家がフィルムをスクリーンに映写する方式を考案し,これにエジソンのバイタスコープの名が冠せられて大々的に興行されたものであった。
エジソン自身は,どうしたら活動写真を形にしうるかということを考えてもみなかったという。
関心は,改良と映写機の製作という仕事だけに限られてといわれる。
慈善バザールの余興として人気絶頂の〈映画〉の上映会が行われている最中に,映写機の光源(当時はガスを用いて)から出火し,テント張りの会場が火につつまれて,死者180名(一説には325名)を出す大惨事が起きた。
05年には映画館(5セントのニッケル硬貨1枚で入場できたので〈5セント劇場〉とも呼ばれた)が,ピッツバーグから各地に広がった。
エジソン製作,E. S. ポーター監督の《大列車強盗》以来〈ストーリーピクチャー(劇映画)〉が生まれ,それにふさわしい劇場として作り出されたニッケルオデオン第1号のこけら落しには,このアメリカの劇映画の開祖として映画史に記される《大列車強盗》が上映された。
08年にはニッケルオデオンがニューヨークだけで600館以上もで入場者を動員,年間600万ドルにのぼる売上げを記録した。
らに10年代に入ると全米で1万5000館以上に達しう。
10年に刊行されたニッケルオデオンの支配人とための手引書には,〈(映画館の)理想的な立地は人口が密集した労働者階級の居住区で人通りの多い商店街に面していること〉と記されていて,移民の多い下層階級の間に〈映画〉が急速に受け入れられていった。
慈善バザールの惨事のあと,打撃をこうむったが,1900年代に入ると,エジソン,メリエス,バイオグラフ,バイタグラフなどをしのいで映画市場を席巻し,映画会社にしあがった。
〈軍需産業を除けば,これほど急速に発展し,金をもたらす産業はほかにあるまい〉と豪語したといわれる。
リュミエール兄弟から権利を買い取ったパテーは,1897年にパテーシネマを資本金2万4000フランで設立したが,1900年には早くも200万フランに,05年には320万フランに,13年には3000万フランに増資することになる。
詩人アポリネールも,投機的熱狂ぶりを山師的犯罪者の冒険譚として描いている(《贋救世主アンフィオンドルムザン男爵の冒険物語》の一話〈傑作映画〉。
映画を巡る激烈な特許戦争が展開されたが,07年にはエジソンの特許権が法的に正式に認められ,翌年エジソンを抱き込んでパテーを含む9社が〈モーションピクチャーパテントカンパニー〉を設立。
10年には配給会社〈ジェネラルフィルム〉を設立して,12年までに60社に及ぶ配給会社を吸収し,フィルムの貸出市場を事実上独占した(映写機1台につき使用料を徴収したり,フィルムの独占使用権も獲得していた)。
撮影所では,ピストルを手に映画館では映写技師が買収され,毎晩,興行が終わった後に,他の館にフィルムを込んで映写するというようなことが起こった。
フィルムの無断使用を巡って訴訟が絶えなかった。
〈映画は金になる〉ということで銀行がこの抗争を鎮めるために介入し,国家も乗り出してきた。
1900年代に〈われわれの時代は映画の世紀だ〉と定義したが,10年代に入ると,映画の社会的存在は決定的になった。
映画は青少年を毒するものであり,不道徳なものであり,教会に背を向けるものであるとして,新聞によって告発され,アメリカでは映画館がピューリタンたちによって襲撃されるという事件も起こった。
こうした世論に対する懐柔策として映画製作者の側から自主規制を行うことになる。