ちょっとマンガチックな映画紹介になっちゃったかナ。
でも私の映画への思いは、それなりに伝わるんじゃないかなあとおもいます。
淀川長治さんの文章を紹介していますが、淀川さんにとって映画は、生活そのものだったんだなあということが分かります。これは、ディズニーさんや手塚さんにも同じことがいえるでしょう(手塚さんの場合は映画というよりはマンガ・アニメという感じがしますが、)
私はそうした方々の働きを通して、暮らしを楽しむこと、(違いを越えて)ともに生きることの素晴らしさ、尊さを教えられたように思います。私もロマンを求めていきたいと思います。
慈善バザールの余興として人気絶頂の〈映画〉の上映会が行われている最中に,映写機の光源(当時は電気でなくガスを用いて)から出火し,テント張りの会場が火につつまれて,死者180名(一説には325名)を出す大惨事が起きた。
05年には映画館(5セントのニッケル硬貨1枚で入場できたので〈5セント劇場〉とも呼ばれた)が,ピッツバーグから誕生して各地に広がった。
エジソン製作,E. S. ポーター監督の《大列車強盗》以来〈ストーリーピクチャー(劇映画)〉が生まれ,それにふさわしい劇場として作り出されたニッケルオデオン第1号のこけら落しには,このアメリカの劇映画の開祖として映画史に記される《大列車強盗》が上映された。
08年にはニッケルオデオンがニューヨークだけで600館以上もで入場者を動員,年間600万ドルにのぼる売上げを記録した。
さらに10年代に入ると全米で1万5000館以上に達した。
10年に刊行されたニッケルオデオンの支配人とための手引書には,〈(映画館の)理想的な立地は人口が密集した労働者階級の居住区で人通りの多い商店街に面していること〉と記されていて,移民の多い下層階級の間に〈映画〉が急速に受け入れられていった。
慈善バザールの惨事のあと,フランスのパテーもかなりの打撃をこうむったが,1900年代に入ると,エジソン,メリエス,バイオグラフ,バイタグラフなどをしのいで映画市場を席巻し,映画会社にしあがった。
〈軍需産業を除けば,これほど急速に発展し,金をもたらす産業はほかにあるまい〉と豪語したといわれる。
〈映画は超現実の創造者である〉と1907年に宣言するフランスの詩人アポリネールも,投機的熱狂ぶりを山師的犯罪者の冒険譚として描いている(《贋救世主アンフィオンドルムザン男爵の冒険物語》の一話〈傑作映画〉。
映画を巡る激烈な特許戦争が展開されたが,07年にはエジソンの特許権が法的に正式に認められ,翌年エジソンを抱き込んでパテーを含む9社が〈モーションピクチャーパテントカンパニー〉を設立。
10年には独自の配給会社〈ジェネラルフィルム〉を設立して,12年までに60社に及ぶ配給会社を吸収し,フィルムの貸出市場を事実上独占した(映写機1台につき使用料を徴収したり,フィルムの独占使用権も獲得していた)。
撮影所では,ピストルを手に撮影し,映画館では映写技師が買収され,毎晩,興行が終わった後に,他の館にフィルムを込んで映写するというようなことが起こった。
差押え執行人や殺し屋が差し向けられるという騒ぎになった。
フィルムの無断使用を巡って訴訟が絶えなかった。
〈映画は金になる〉ということで銀行がこの抗争を鎮めるために介入し,国家も乗り出してきた。
1900年代に〈われわれの時代は映画の世紀だ〉と定義したが,10年代に入ると,映画の社会的存在は決定的になった。
映画は青少年を毒するものであり,不道徳なものであり,教会に背を向けるものであるとして,各種の市民団体や新聞によって告発され,アメリカでは映画館がピューリタンたちによって襲撃されるという事件も起こった。
こうした世論に対する懐柔策として映画製作者の側から自主規制を行うことになる。
劇場建築に関する手引書に〈壮大にして宮殿のような設計が大切〉とように,劇場やオペラハウスなみのデラックスな,したがって入場料の高い映画館に中産階級や観客を動員することに成功して,映画産業は飛躍的に発展した。
第1次世界大戦によってヨーロッパ,とくにフランス映画の製作が中断されている間に,映画市場を完全に掌握することになる。
アメリカ映画の輸出は,1915年にはが,翌16年にはその5倍近い1億5900万フィートに達し,大戦が始まった1914年には世界中で上映さ映画の90%がフランス映画であったのが,大戦が終わった19年にはアメリカ映画が85%を占めるに至った。
こうして産業としての映画の歴史は,サイレント映画の黄金時代を経て,トーキー,カラー,ワイドスクリーン等の出現を迎え,アメリカを中心に動いていくようになるのである。
コンクール形式に非コンクールに設定や有無)も規約に基づいて決められる。
モスクワ映画祭は1959年にスタートしたが,国際映画製作者連盟は,共産圏の映画祭ではチェコスロバキアのカルロビバリ映画祭(1950発足)にグランプリの名称を与えていたため,モスクワ映画祭の割込みを許さず,結局,カルロビバリ映画祭(偶数年開催)と交互に奇数年開催という形で公認になったといういきさつがある。
国際映画祭に出品できるのは,映画製作者連盟に限られるので,日本映画の場合は独立プロ作品にそのチャンスが与えられないことになる。
国際映画祭は開催国に,宣伝,観光収入という効果,利益をもたらすといわれるが,実際,世界で歴史をもつベネチア映画祭はムッソリーニ政権下の1932年に〈国威宣揚〉の目的で生み出され,また,どの国際映画祭も国際親善とためにつくすことをうたいながら,実質は映画の商品見本市を主要な目的とし,同時にことを目ざしているということができる。
映画祭として国際映画製作者連盟に登録されているのは,80年の時点で世界中に180以上もあるが,ロンドン映画祭(1958発足)やニューヨーク映画祭(1963発足)のように,各地の国際映画祭で評価を得た作品を上映する〈映画祭の映画祭〉もある。
誕生は,〈活動写真〉の輸入から18年後の1916年,北沢楽天を中心にし漫画雑誌《東京パック》の同人下川凹天,幸内純一と,洋画家の集りフュウザン会の企画経営者北山清太郎の3人から始まる。
当時《凸坊新画帖》という肩書で公開された E. コールらの作品の現物を分析して,手探りでそのトリックを解明するところからスタートした。次いで幸内純一門下の大藤信郎の〈千代紙映画〉(《馬具田城の盗賊》1926)が生まれ,やがて洋画,日本画を学びマキノプロを経てきた政岡憲三が登場し,《森の妖精》(1935),《べんけいとウシワカ》(1939)などの意欲作を発表するとともに,家内工業スタイルだったこの世界に,近代的な製作スタイルを導入して合理化を進めた。
瀬尾光世をチーフアニメーターとする政岡映画の製作スタッフが,今日の日本のアニメ製作者の源流を形成したといえる。大部分のアニメは教育映画,国策 PR 映画の一端として製作され,作品として一人前扱いされないというのが当時の状況であった。
戦時中に作られたアニメの中では,政岡憲三の珍しく時局色のない《くもとちゅうりっぷ》(1943),瀬尾光世の長編《桃太郎の海鷲》(1943)が出色で,それぞれ平和と戦争のシンボルとして今日なお命脈を保つ名作とされている。
戦後は,次の三つの事件を経て日本のアニメーションは大きく転換した。(1)藪下泰司の《白蛇伝》(1958)を最初とする〈東映動画〉による長編漫画がコンスタントに(年1回,夏休み用に)製作され,上映され始めたこと。(2)60年,久里洋二,柳原良
平,真鍋博が〈三人のアニメーションの会〉を設立して,積極的な実験アニメの製作に乗り出したこと。(3)63年,漫画家の手塚治虫の虫プロが,毎週,国産テレビアニメの30分番組(《鉄腕アトム》)をスタートさせたこと。
とくに虫プロ作品はテレビアニメの隆盛を促し,しだいに30分のテレビアニメはギャグからストーリー中心に移行し,やがて《アルプスの少女ハイジ》など,一年連続の児童文学ものが登場。この名作児童文学のアニメ化と並んで,同じ74年に SF 宇宙戦争もの《宇宙戦艦ヤマト》が半年連続シリーズとして作られ,その後の連続テレビアニメの二大路線を築いた。《ヤマト》の総集編が77年に劇場公開されて大ヒット,これが劇場用長編アニメ競作の口火となり,松本零士原作,りんたろう演出の《銀河鉄道999》(1979)のような劇場の大画面を生かした映像美をたんのうさせる作品や,宮崎駿演出,大塚康生作画監督の《ルパン三世カリオストロの城》(1979)のような緩急自在の作劇,痛快なアニメート,奇想天外なギャグなど,おとなも満足させる内容と技術をそなえた冒険アニメの快作も生まれた。
製作本数だけは世界一という日本の商業アニメの濫作状況の中で,実験的な自主アニメも活発に製作され,久里洋二の一連のナンセンスギャグアニメ(《人間動物園》1962,《殺人狂時代》1967など)がまず海外で注目され,次いで古川タク(《Head Spoon》1970,《驚き盤》1975など),J. トルンカに師事した〈人形アニメ〉の川本喜八郎(《鬼》1972,《火宅》 1979,など),岡本忠成(《ふしぎなくすり》1965, 《虹に向って》1977,など)らが,各地の国際映画祭で受賞して世界的な名声を得た。
『鉄腕アトム』の時代から、アニメはキャラクターグッズ化によって制作資金回収を行うという独自のシステムが形成されていた。鉄腕アトムの制作者手 塚治虫は、ディズニーアニメの販売戦略を真似たともいわれるが、日本のアニメはディズニーのそれとは別の道を歩むことになった。
現代、ディズニーアニメは製作費が高騰し、全世界で配給して多くの年齢層の観客をとりこみ、できるだけ多くの興行収入を確保するというシステムに なっており、それに伴ってストーリーや題材も当たり障りがなく、どこからも苦情が来ないようにあえて工夫されて作られているものが多くなりつつある。
これに対して日本では、ディズニーのようなアニメの巨人が存在しなかった。多くのアニメスタジオが競って作品を作ったため、作家性の薄いもの、強い もの、個性的なもの、平凡なもの、当たり障りのないものなど、おびただしい数と種類のアニメ作品が生まれた。現在も少人数、低予算で制作されるという点は 変わっておらず、これが欠点であり武器でもあるという点も変わっていない。少人数で作られるゆえの作家性の高い作品、低予算であることから生まれるおびた だしい数の作品は、現在でも日本のアニメの特徴である。